3.暮らし上手/歴史遺産・文化財

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姫路の文化財 -指定等文化財(第1巻)より転載
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兵庫県立大 人間環境学部 新在家キャンパス 講堂(旧姫路高等学校講堂)
旧本館に向かって右手奥に西面して建つ。正面15.5m側面29.5m。木造2階建て、下見板貼で旧本館と共通するデザインでまとめられているが、
トスカナ式の角柱を持つ玄関ポーチとその上部の切妻破風を両脇の角塔が挟む立面構成をとることで正面性より強調したものとしている。旧本館とともに「造形の規範となるもの」として登録された。国登録
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兵庫県立大 人間環境学部 新在家キャンパス ゆりの木会館(旧姫路高等学校本館)
旧姫路高等学校は大正12年に設立され、大正15年に竣工した木造の本館・講堂が残存する。下見板貼スティックスタイルによる文部省直轄学校建築の一事例である。
文部省直轄学校建築は旧制第一~第五高等学校は煉瓦造り、このあと昭和初期の旧神戸商業大学や旧京都高等学校は鉄筋コンクリート造である。
なお敷地南側の石造正面門柱が当時のまま残っている。国登録
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姫路市立美術館
煉瓦造2階建て、日本瓦葺、切妻屋根を有しL字型に2棟を接続した配置である。
東西棟は第十師団の兵器庫として明治38年(1905年)頃建設された。南北棟は大正2年増築で、棟札から陸軍技手
宮本平治の設計、工場主任官井田熊吉である。
昭和22年姫路市庁舎として改修工事、昭和58年4月に姫路市立美術館としてオープンした。
姫路城の一角(特別史跡地内)にあって。姫路市の近代の歩みを示す建物であり、
「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として登録された。
国登録

名古山弥生式住居跡
名古山遺跡は、名古山東斜面の弥生式時代中期末の集落跡で、発掘調査によって3棟以上の竪穴式住居跡が確認された。
そのうち史跡に指定されている住居跡は、8m以上に及ぶ楕円形で、中央に灰のつまった径1mに近い穴が掘られていた。
床面には4本の柱穴があり、土手状の遺構をともなっており、その上にも柱穴があった。日本で初めて出土した銅鐸の
鋳型(市指定・名古山弥生遺構出土遺物)はこの土手から出土したものである。
市指定

大歳神社東山焼狛犬
狛犬一対のうち口を開いた阿形の方である。東山窯の棟梁であった池田弥七が還暦にあったて産土神に奉納したものである。
東山窯は文政5年(1822)頃に東山におこった窯で、のちに藩主酒井家の御用窯になった。天保2年(1831)頃、山野井の
男山に窯をうつして最盛期を迎えたが、安政初年には民営にうつり次第に衰微した。明治9年には永世舎にひき継がれたが、
同15年に窯の火は消えた。
市指定

播磨国総社銅鐘
この銅鐘は形態の美しさもさることながら、津田村の鋳物師(大工津田村内記石根丸、小工内記四郎左衛門)が制作した
現存唯一の在銘鐘であり、播磨国総社に対する信仰のあり方を示すもので、地方史的にも貴重な文化財である。
永正3年(1506)置塩城主赤松義村(御屋形様)が大願主となり、両目代名主地下人が本願となって制作されたもの。
市指定

播磨国総社忠国剣
大坂の粟田口近江守の2代目、一竿子忠綱は江戸時代屈指の名工で、摂津住藤原忠国は若年のときの銘である。
初代忠綱が姫路出身であることは古剣書に記載があり、「播州於姫路作之」の銘のある遺作もある。
おそらく播磨国総社の氏子であったと思われる。
戦災に遭ったが、昭和54年に人間国宝月山貞一師によって再刀され、地鉄がよいので冴えた地刃が再現されている。
市指定

姫路神社忠以(ただざね)脇指
姫路藩酒井家は歴代藩主が御焼刃と称して作刀を行った。これは2代目酒井忠以(宗雅1755~90)のもので、
「玄武日記」に自らの作刀について記録を残している。
御焼刃は現護国神社のあたりにあった御鍛冶小屋で、酒井家が姫路に転村になった際、前橋から帯同した丹治秋治らの
抱鍛冶を相手に作刀されたものである。
市指定

赤松政則刀
嘉吉の乱で滅亡した赤松氏を再興し、播磨・備前・美作三国の守護となった赤松政則が、延穂元年(1489)美作国大原の陣
で作った作刀で、側近の武将小倉則純に与えた為打である。
政則の遺作は14口が知られ、播磨国書写坂本、美作国大原、京都の3ヶ所で作られ、ほとんどが恩賞として被官に与えた為打である。
相手鍛冶が当代随一の名工備前国の長船勝光・宗光であり、いずれも優れたものであるが、なかでもこれは傑出の一口である。
市指定

菱の門
二の丸正面大手門にあたる壮麗な門で、桁行10間、梁間4間、2層の各面にで格子をおき、南北両面に黒漆塗りに桐紋のついた
金色金具をうった格子窓3個と火打窓2個を左右対称におく。桃山時代の城門として貴重な遺構。

との門
城の搦手、喜斎門より本丸に登る通路にとの一門から四門が並んでいたが、との三門は現存しない。との一門は幅6.7m、奥行き3.5m
場内唯一の素木造の櫓門で扉の上半分がすかしになっている。

ぬの門
二の丸の上山里曲輪から三国濠及び姫山、鷺山の谷間へ下りるところにある門で、幅6.4m、奥行き3.1m、
現存する城門のなかで唯一の3重櫓門である。

帯の廓櫓
通称腹切丸と呼ばれ、桁行10間、梁間3間の建物が3房に区画され、帯の櫓4の基礎石垣をくぐって通じており、腹切場の印象をもつことからであろう。

化粧櫓
本多忠刻の室千姫(徳川秀忠娘)が男山の天満宮を遙拝するために、三の丸居館から上がってきて化粧直しをした場所と伝える。桁行7間8分、梁間
3間3分、床の間を備え畳・建具も一般の室のようにしつらえ、邸宅的要素が強い。

カの櫓
現存する西の丸諸櫓のなかで唯一孤立した2重の隅櫓で、西の丸南面を西方のワの櫓と相対して固める重要な建物である。
ワの櫓は唐破風と千鳥破風を巧妙に配置し優美端麗であり、
カの櫓は唐破風のない2重の入母屋造りでどっしりと落ち着いている。

/姫路の文化財 -指定等文化財(第1巻)より転載

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城西校区の文化財マップ( 参照:校区の歴史「ふるさと城の西」)より転載
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名古山霊園 仏舎利塔
釈迦の遺骨を仏舎利といいます。ここはインド故ネール首相から贈られた仏舎利を納めた厨子が安置されています。
塔内には釈迦の生涯を描いたモザイク画、釈迦の十大弟子立像、十二神将等が設置されています。

瑞松山 景福寺
姫路藩主の菩提寺があった寺で、藩主の交代ごとに山の名、寺の名が代わりました。
現在は曹洞宗の禅寺。山上には前藩主松平明矩(あきのり)の墓所がある。山麓には姫路藩の藩士の墓が多数あり、
境内には藩主夫人であった3人の墓があります。入口には船場八景や材木町の由来を記した表示板が設置されています。
〒670-0027 兵庫県姫路市景福寺前7-1.
世界遺産姫路城十景のひとつ「景福寺山」

星見寺 けんしょうじ
禅宗(臨済宗)の尼寺。初代姫路藩主池田輝政の位牌が伝えられています。
墓地には本多忠政・本多忠刻の名が刻まれた五輪塔があります。
境内には酒井忠以が姫路城藩主の時、船場川洪水の犠牲者を供養するため建てた、溺死者23回忌菩提碑があります。
城西校区の文化財マップ( 参照:校区の歴史「ふるさと城の西」)より転載

大歳神社
大歳神社のある新在家本町は昔、新在家村と呼ばれていました。播磨国風土記の因達里と推定される場所です。
この名前は次に述べるように八丈岩山に由来します。現在では新在家六町の氏宮として秋祭りの時に屋台が繰り出されます。
城西校区の文化財マップ( 参照:校区の歴史「ふるさと城の西」)より転載

IMG_1694鷺の清水
古くから名水として知られた鷺の清水の遺構です。
城西校区の文化財マップ( 参照:校区の歴史「ふるさと城の西」)より転載

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水尾神社
男山の麓に鎮座しています。もと伊和大神を祀っていましたが、数々の変遷後、明治の神仏分離の際、水尾神社と
名を改め現在に至っています。
池田・本多・榊原・酒井藩主は祭事に能楽を奉納しました。
城西校区の文化財マップ( 参照:校区の歴史「ふるさと城の西」)より転載
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千姫天満宮
徳川家康の孫である千姫は本多忠刻と再婚しました。そこで、千姫は本多家の繁栄を願って建立しました。
菅原道真を祭神として祭っています。
城西校区の文化財マップ( 参照:校区の歴史「ふるさと城の西」)より転載

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男山八幡宮軍(いくさ)の神を祭ったのが八幡宮です。男山八幡宮の下の石鳥居は松平直矩が寄進しました。
榊原政邦は姫路城の守護神として新社殿を寄進建立しました。上の石鳥居も政邦が寄進したものです。
2月18日・19日に行われる厄神祭は「男山厄神さん」と親しまれています。
船場八景の一つで表示板があります。

IMG_2180愛宕山大権現
火の神を祭神として祭っています。

 

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不動院
高野山真言宗の寺院です。
「姫路城主池田輝政菩提寺である龍峯寺・國清寺旧蹟」の碑があります。
墓地には三十三観音石仏・宝篋(きょう)印塔・石仏群等の石造品が多数あります。
かつては東山焼男山釜がありました。
船場八景の表示板が不動院の近くに設置されています。
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宮本百合子文学碑
岡町にあった商人宿に泊まった宮本百合子の小説「播州平野」にこの宿の記述が出てきます。
現在、碑は城の西公民館の前にあります。
備考:

歳徳神社
色々な変遷後1618年から現在地に移ってきました。歳徳神社は水尾神社で行われる秋季例大祭の時の御旅所となっています。

西国街道
昔ながらの町家やレトロな洋館があり、なつかしい風景が見られます。

光専寺
真宗大谷派の寺で、西方から姫路城下に出てくるときの立ち寄り寺として栄えました。

初井家
姫路を代表する文化人。故初井しづ枝の家。江戸時代の建物で、姫路市指定景観重要文化財です。

のこぎり街路
江戸時代初期に作られた町で、街路がノコギリの刃のようにジグザグになっています。
姫路城を守るために作られたといわれ、姫路以内で数か所見られます。

薬師山隧道(名古山トンネル)と貫通石
トンネルは山の両側から掘り進みます。そして、ほぼ中間地点でトンネルが貫通したときに採集された
石を貫通石といいます。安産のお守りとして重宝されます。ここの貫通石は薬師山隧道で採集された
もので、花崗岩という岩石からできています。名古山墓地の西側にも1カ所花崗岩が見られます。
地質学的には、ここで花崗岩が見つかるのは大変な謎です。

名古山遺跡と辻井遺跡・辻井廃寺跡
名古山遺跡は約1,800年前の弥生時代中期の集落・竪穴式住居跡です。銅鐸の石製鋳型は日本で初めてここで
発見されました。姫路市指定史跡です。遺跡の横にある4つの大きな石は辻井廃寺の礎石が運ばれてきたものです。
辻井遺跡は名古山遺跡よりさらに古い縄文時代後半のもので人骨が出土したことで著名です。
辻井廃寺は辻井遺跡の上層二ある遺構で、白鳳時代(645~710年)に建てられた寺院の跡です。
の礎辻井廃寺の中心柱石のみが田圃の中にあります。
ここで出土した奈良三彩と呼ばれる器の破片は市内でも数例しか出土していない貴重なものです。

播磨風土記に出てくる山々 八丈岩山・男山・姫山・景福寺山・名古山・薬師山・秩父山
約1,300年前にできたといわれる播磨国風土記で地名の由来を説明した文に城西地区の山々が出てきます。
神々の昔、播磨地方は一面の海でした。大汝命(オオナムチノミコト)は子の火明命(ホアカリノミコト)
の性格が荒々しく父神を困らしたので子を捨てようと考え、因達(イタテ)神山(今の八丈岩山)に来た時、
子に水を汲ませている間に船を出して逃げようとしました。水汲みから帰った火明命は、父神が自分を残して
逃げるのを見て大変怒り、波風を起こして父神の船を難破させました。船はひっくり返り、積み荷があちこちに
流れ島に着きました。大波のため船が進めなくなった所を波丘(名古山)、船の着いた所を船丘(景福寺山)
琴が着いた所を琴丘(薬師山)、積み荷の箱が落ちた所が筥丘(はこおか・男山)、積み荷の蚕が落ちた所が
日女道丘(姫山)、箕(み)が着いた所は箕丘(秩父山。城西小学校の南東角にあります)といわれています。
広峯山から見ると、確かにこれらの山々は海に浮かぶ島のように見えます。

地質学的には、これらの山々は1億5千万年前に海底に堆積した泥や砂が長い時間をかけて固結した後、隆起して
できたものです。八丈岩山の西側はチャート(火打ち石)という岩石からできています。
これは遥か彼方数千kmも離れた所から何千万年もかけて移動してき、日本近海で潜り込み砂岩等と混じり合いました。
この動きをジュラ紀変動といいますが、これらの山々は大規模な地球の動きによってできたものです。
標高172.9mの八丈岩山山頂にはこの山の由来となった、少し東に傾いた平らな岩がありますが、これはチャートです。
登山道に転がっているチャートの中には白・青白色の筋が入った岩石がありますが、これはオパール(蛋白石)です。
(宝石にはなりません)。昔、山頂北側では小さな水晶がたくさん採集できました。
なお、山頂には測量に使う三角点の柱石があります。
/以上 城西校区の文化財マップ( 参照:校区の歴史「ふるさと城の西」)より転載

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播磨風土記研究会 玉岡松一郎編著「続播磨の伝説」より転載
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播州皿屋敷
(姫路市本町)室町のおわり姫路城主は小寺則職(のりもと)であった。その時の執権青山鉄山はお家の横領をくわだてた。
ここに衣笠元信という忠臣がいて妻のお菊を鉄山の家の女中に住まわせたくらみをさぐらせた。
お菊は鉄山の三男小五郎に取り入り鉄山が永正二年(1505)三月二十八日増位山の花見に上君則職を毒殺しようとする計画のあることをさぐりあて、
夫の元信に知らせた。
三月二十八日元信をはじめ主君を思う人達は宴会の場に斬り込み主君を助け主君はひとまず家島に身をかくし元信も竜野にのがれた。
鉄山一味は姫路城を手中におさめたが、鉄山はかねてお菊に預けている家宝の毒消の皿を一枚隠し皿の行方をたずね、お菊をせめたが返事はなく
、お菊の身柄を家来の町坪弾四郎にあずけた。弾四郎はおどしたりすかしたりしたあげく、井戸の上の桜の木にお菊を吊るしとうとう井戸の中へ
斬り落としてしまった。
すると、雷が鳴り大地が震動する騒ぎとなって、そのうち雨の夜などは井戸の底から「いちまい、にまい、さんまい、よんまい・・・」と皿を数えるお菊の
悲しい声が聞こえたという。

お菊虫
(姫路市本町)番町皿屋敷から播州皿屋敷へと飛地した。更に寛政七年(1795)には姫路の城下に不思議な虫が発生した。これはお菊の怨霊でその年忌毎に
現れるものだとして、お菊虫といった。

/播磨風土記研究会 玉岡松一郎編著「続播磨の伝説」より転載

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「兵庫のふるさと散歩」より転載
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船場川・白鷺橋付近
姫路平野の三角洲を形成している市川の分流の一つが船場川の河道で、姫路の市街地の中心部を
流れ飾磨に達する川である。
古くは妹背川とか三和川と呼ばれたが、姫路城主本多忠政が元和三年(1617)飾磨への舟運の便を開き

船着き場を建設し、城下の繁栄を図ったので、この川は船場川と名付けられ西岸の町々を船場と呼ぶように
なった。国道2号線の船場川にかかる橋を白鷺橋といい、橋のたもとに昔、高瀬舟が綱で引かれたり
帆をかかげたりして往来した姿をしのぶ高瀬舟を形どった記念碑が昭和四七年につくられた。
/「兵庫のふるさと散歩」より転載

清水橋
白鷺橋の上流約1キロの所に清水橋がある。姫路城の清水門付近にある橋で、橋のそば中濠との間の土手に
一本の石碑がある。長い間川底に埋もれていたので文字は読めないが、この石碑は姫路城を建てた大工桜井源兵衛
の墓だといわれ、近くの人が盆、正月に花を供えたりしている。しかし、元禄八年(1695)の材木町材木屋の記録によると
、本多忠政の船場川改修記念碑であるという。
/「兵庫のふるさと散歩」より転載

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船場本徳寺
白鷺橋西方、池内町にある浄土真宗大谷派別院である。本堂は火災にあい再建されたものであるが、寺号瓦で屋根をふき、手すりにギボシが付けられ、寺堀には五本の線がつけられている.
船場本徳寺の歴史は、本願寺第八代蓮如が播磨に真宗興隆の手を拡げた時、英賀城主三木通秋を始め播磨一円の信徒により永正八年(1511)英賀御堂が建設された。秀吉の英賀攻めにより城下の町々が焼け、御堂も天正十年(1582)亀山の地を寄進されて移り、亀山本徳寺が建てられた。本願寺が東西二派に分かれた時、播磨の真宗寺院の中心であった亀山本徳寺は初め東本願寺に属したが、姫路城主池田輝政が東本願寺の教如と争い、のち播磨の寺院は西本願寺に属するようになった。

播磨に東本願寺派を再興しようと姫路城主本多忠政は、土地を寄付し旧池田家の菩提寺であった国清寺の建物を与え、元和四年(1618)秋完成したのが船場本徳寺である。これにより船場と亀山両本徳寺が播磨における真宗の東西の中心となった。船場本徳治寺はその後も姫路城主榊原忠次・政邦などから土地の寄進をうけ寺域が拡大し今日に及んでいる。境内の南端に明治十年の西南の役に姫路から参加して戦死した七六七名の霊をなぐさめるための慰霊碑がある。もと薬師山にあったが、中学校が建設される際、境内に移されたものである。
/「兵庫のふるさと散歩」より転載 /楽市楽座

東山焼
澄んだ青磁が特徴の東山焼は、安永年間(1772~82)に、姫路・東山の興禅寺山麓ではじめられた。神戸の木屋が番頭の繁田
幸助を派遣して陶器をはじめたという記録があるが、創業の様子は明らかではない。三方を山に囲まれた窯跡には、
土を練りあげるために使われた井戸が残り、山の中腹には窯の火袋跡の一部が今も見かけられる。文政二年(1829)に製陶した
という記録を最後に、東山焼の主流は男山の麓に移された。さらに明治10年ごろからは姫路市内の大蔵前町(現関西電力付近)に
窯をかえて、輸出用磁器などをつくっていたが、いつしか途絶えてしまった。
したがって東山窯の歴史は百年あまりだったことになるが、その最盛期は男山窯時代で、姫路藩の家老河合寸翁が、京都の陶工
で、もとは白浜町出身の周橘蔵を迎えて指導に当たらせるなど、藩が積極的に保護して名品をつくらせ、徳川家への献上品に
するなどして東山焼の名を全国にひろめた。
東山焼は茶華道具から儀式用具、日用器具などにおよんでおり、「東山」「雄山」「白鷺製」などの銘があるが、今では
東山焼として総称され、貴重がられている。
/「兵庫のふるさと散歩」より転載

姫路ゆかた祭り
毎年六月二二日から三日間、姫路はゆかた祭りでにぎわう。もとは姫路城内にあった、長壁神社(立町)の祭礼なのだが、大手前通り
を中心に露店が並び、ゆかた姿の家族づれがくり出して梅雨どきのうっとうしさを払うさわやかな行事として定着している。
二二日の夕刻、姫路城から長壁神社までゆかた姿の幼稚園児らが回り灯籠を手に行進することで祭りの幕はひらく。寛保二年(1742)
、城主・榊原政岑が姫路を去るにあたって、華やかな行事を残しておこうとして、この祭りははじまったという。街をあげての祭りに
という命令だったが、あまりに急なことで、領民は祭り衣装も整えられない。「いや、ゆかたで結構」と、政岑はイキなはからい。
もともと政岑は風流人で、姫路を去ることになったのも、風流が過ぎてのご乱行が原因だった。なにしろ、新吉原の遊女・高尾を二千五百両で
落籍した上、高尾のために三千両を積んで吉原の遊女を総あげにして披露し、姫路へ連れ帰った。政岑がゆかた祭りを思い立ったのも、
高尾と二人づれで見物した神田明神祭りのにぎわいが頭にあったからではないかといわれているが、当時の政岑は隠居の身で、七歳の嫡男
政永が藩主であったから、果たして派手なゆかた祭りを発議し実現し得たか否かについては疑問がある。
/「兵庫のふるさと散歩」より転載

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播磨の街道 橘川真一著より転載
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龍野町
龍野町は羽柴秀吉が開いたといわれる。播磨攻めに勝利した秀吉は、天正八年(1580)から姫路城の築城にかかり、
城下町の整備を始めた。周辺から大勢の住民が集まり、あっという間に町屋を形成した。龍野町は龍野へ通じる
入口だったのと、龍野辺りからの移住者が多かったので、町名にまでなったという。
秀吉はここにも落城した英賀城下の住民を移し、楽市を立てさせたといわれる。拓本が残っている。
「龍野町御札」には、市の日を守らせ、諸公役を免除するなどが定められ、手厚く保護したことが分かる。
「龍野町三丁目明細帳」(寛延三年・1750)には、三十七軒が並び、栗柿などの木類と菜大根などの野菜を扱う二軒の
市場と問屋があったことが記されている。
売り物があれば毎日のように市が立てられたといわれ、城下町と周辺の町々の接点として発展していった。
そんな往時の面影は、いまはしのびようもない。

薬師山
薬師山については地誌「播磨鑑」に「龍野町五丁目 石薬師」の伝説が出ている。
元和九年(1623)の三月十三日のことである。村の人がこの付近の田で苗代を耕していた時、鋤の先に当たるもの
があった。不思議に思って掘り出してみると石造の薬師如来像であった。
安置づるところもなかったので、近くの山上に祀った。ちょうどこの時は、本多忠政が姫路藩主で姫路城を普請するため、
この山から多くの石を切り出した。人々はこの石仏を見ながら作業したという。
ある時、一人の病人が「私の病が治るようなら玉垣を作り、〆飾りを引こう」と薬師像に願をかけたところ、たちまち病は
良くなった。この人は約束通り玉垣を巡らし、〆飾りをして、信心を深めた。これを見たある人が「そんなことは、あるわけがない」
と、石仏を山から突き落とした。とたんに、この人は狂乱したというのである。このほか幾多の奇瑞があり、評判になった。
この話を聞いた藩主夫人が、ひそかに願い事をしたところ成就したので、小さなお堂を建立して安置したと言われる。
それ以来、この山を薬師山と呼ぶようになった。
薬師山は、名古山(霊園)に連なる丘陵で、標高は40m。「播磨国風土記」の伊和の里十四丘の一つである琴丘の比定地で、
山頂に琴丘中学校があり、大岩を御神体にする大御岩神社、御岩力神社がある。以前には西南戦争で亡くなった兵士の供養碑や
姫路藩の勤王志十二名の墓碑があったが、船場本徳寺に移されている。
街道に立つ「表忠魂碑」の石表だけが名残をとどめる。中学校の南には善福寺、願成寺があり、丘陵の南端には、薬師堂もある。

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播磨風土記に出てくる山々
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八丈岩山・男山・姫山・景福寺山・名古山・薬師山・秩父山
約1,300年前にできたといわれる播磨国風土記で地名の由来を説明した文に城西地区の山々が出てきます。
神々の昔、播磨地方は一面の海でした。大汝命(オオナムチノミコト)は子の火明命(ホアカリノミコト)
の性格が荒々しく父神を困らしたので子を捨てようと考え、因達(イタテ)神山(今の八丈岩山)に来た時、
子に水を汲ませている間に船を出して逃げようとしました。水汲みから帰った火明命は、父神が自分を残して
逃げるのを見て大変怒り、波風を起こして父神の船を難破させました。船はひっくり返り、積み荷があちこちに
流れ島に着きました。大波のため船が進めなくなった所を波丘(名古山)、船の着いた所を船丘(景福寺山)
琴が着いた所を琴丘(薬師山)、積み荷の箱が落ちた所が筥丘(はこおか・男山)、積み荷の蚕が落ちた所が
日女道丘(姫山)、箕(み)が着いた所は箕丘(秩父山。城西小学校の南東角にあります)といわれています。
広峯山から見ると、確かにこれらの山々は海に浮かぶ島のように見えます。

地質学的には、これらの山々は1億5千万年前に海底に堆積した泥や砂が長い時間をかけて固結した後、隆起して
できたものです。八丈岩山の西側はチャート(火打ち石)という岩石からできています。
これは遥か彼方数千kmも離れた所から何千万年もかけて移動してき、日本近海で潜り込み砂岩等と混じり合いました。
この動きをジュラ紀変動といいますが、これらの山々は大規模な地球の動きによってできたものです。
標高172.9mの八丈岩山山頂にはこの山の由来となった、少し東に傾いた平らな岩がありますが、これはチャートです。
登山道に転がっているチャートの中には白・青白色の筋が入った岩石がありますが、これはオパール(蛋白石)です。
(宝石にはなりません)。昔、山頂北側では小さな水晶がたくさん採集できました。
なお、山頂には測量に使う三角点の柱石があります。

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まち歩きで見つけた碑
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日限地蔵尊(西八代町)このお地蔵様のつくられた年代は、お地蔵様の台石の裏側に刻まれています。台座の左の端(お地蔵様の背中から見ると右側)に享保七壬寅年右の端に二月廿四日(24日)と彫られています。享保七年は1722年で今から295年前です。徳川吉宗の時代で、姫路藩主は第二次榊原政邦。藩主着任は政邦30歳の宝永元年(1704)。藩主として卒する享保十一年(1726)まで22年間播磨藩を統治しました。領民を慈しみ仁政を施し、また神仏を深く崇敬し、男山八幡宮を造営した藩主でもあります。この政邦の前の藩主だった本多忠國も安定した政治を行っていたので、お地蔵様が作られる40年ぐらい前から、姫路藩の人達は安定した暮らしを送っていたと思われます。その頃は南八代村(150戸くらい)、北八代村(十数戸)に分かれていました。墓地にあるお地蔵様を除いてこの近隣には、八代、梅ケ谷、清水門、坊主町角とお地蔵様がまつられており、全てこの順番に八代の日限地蔵尊から歓請され建立されたと聞いています。お地蔵様の前を通られる時はお詣りをお願いします。

地蔵盆は関西が盛んで関東で生まれ育ったひとは「ににそれ」と初めてふれる年中行事です。しかし地蔵盆の歴史は古く、寛文・延宝期(1,600年代)の年中行事を記した「日次記事ひなみきじ」にはすでに記載されているどうです。この八代のお地蔵様が作られた享保の時代の京都の地蔵盆の様子が書かれた文を紹介します。享和二年 滝沢馬琴著「覇旅漫録」七月廿二日(22日)より廿四日(24日)にいたり、京の町々地蔵祭あり。一町一組家主年寄の家に幕を張り、地蔵菩薩を安置し、いろいろな備へ物をかざり、前には燈明桃灯をだし、家の前には手すりをつけ、仏像の前に通夜して酒盛りあそべり(活花、花扇かけその外器物を集めて種々の品々をつくり、家毎飾りおく町もあり)年中町内のいひ合わせもこの日にするという。昭和30年くらいまで、八代の地蔵盆も盛んでした。村中を寄付集めに回り、高い「みたらし提灯」をあげ、盆踊り・祭文(余興)などで、八代はおろか、近村の人達も集まり、それはそれは賑やかでした。田んぼや道路にスクリーンをはり映画の上映なども行われました。自治会回覧より
八代深田遺跡(城乾小 南八代町)
男山西麓、大野川流域に発達した微高地上に立地する竪穴式住居趾1棟、甕棺1基、土壙墓2基、壺棺1基、
古墳時代の溝1条が見つかっている。この遺跡から出土した文の土器や円窓土器は、弥生時代中期後半の頃、
畿内及び東海地方と密接な交通があったことをうかがわせる。
姫路市教育委員会。

播磨 紫崎山城・北曲輪跡
大歳神社の北東。88m/60m 石垣、郭、井戸

 

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白川神社
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清水地蔵尊
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